45歳でがんになった私 20年の物語(仮)

目次

1.はじめに

私が子宮頸がんだと分かったのは45歳。
11年勤務した会社を退職後、その会社から業務を委託されて自宅で仕事をしつつ、
家事と育児の全般をこなしていた時期だった。
家には、3歳上の夫、中学1年生の息子、小学校3年生の娘がいた。

息子の中学受験が終わって、
そういえば健診にしばらく行ってないなあ、
夫の会社の配偶者検診が隣駅でも受けられるようになったし、行ってみるか。
そんな感じで受けた健診で「要再検査」が付いて、紹介状を渡された。

紹介先は婦人科。
子宮がん検査の項目で再検査とのこと。

けれど、すぐには病院に行かなかった。
息子の受験合格のお祝いに家族旅行が決まっていたし、私、元気だし。
紹介状って封をされているから中身が見えないし、どうせ大したことないでしょ。

旅行から戻り、
1か月以上過ぎてから重い腰をあげて、
近くの公立病院に予約を入れた。
ここは、母が子宮がん初期で入院・手術を受けた病院だ。

予約日が来て、
婦人科部長の女医さんが担当になった。
内診台での診察、
「出血しますよー」と言われたとたん、チクっと痛みがある。

数日して病院から電話が来た。
細胞診の結果をお伝えするので早めに来てほしいとのこと。

ひとりで診察室に入ると
婦人科部長先生が開口一番、
「子宮頸がんです。一見してわかるくらいの大きさです。なんでもっと早く来なかったの?」


この日から、「がん患者」としての人生が始まった。

現在、私は65歳。
あの日から20年が経過している。

入院・手術、半年にわたる化学療法を経て、
いくつかの後遺症を抱えながらここまで生きてきた。

がんは今や多くの人が罹患するメジャーな病気だ。
命に係わる重篤な病気には変わりがないが、
治療後生き続ける人の方が多いのが今の状況だ。

がんは、「完治」がない、とも言われる。
がんに罹った後も、がんとともに人生は続く。

私が書こうと思っているのは、闘病記ではない。
がん罹患によって、その後の私の生き方が大きく変わった。

そのことをお伝えしたいと思う。

2.入院までの1週間

「子宮頸がんです」と婦人科部長先生に言われ、進行しているのですぐにでも入院するように勧められた。

進行しているけれど、
手術で取り切れれば間に合う、と。
45歳、11月末だったと思う。

私はフリーランスで、以前働いていた会社から業務を委託され、
数人のグループで分担し、在宅で仕事をしていた。

息子は中1、中学受験を経て
通学に片道1時間40分かかる中高一貫男子校に通っていた。
娘は小3、地元の公立小学校に通っていて、
バレエのレッスンに週2~3回行っていた。

夫はSE、
コンビニやスーパーなどの流通業界担当。
管理職ではあったが残業・休日出勤は当たり前、有給休暇を取ったのはいつのことか思い出せないほど多忙な部署にいる。

仕事、息子の弁当、娘のバレエの送り迎え。
洗濯、子供の夕飯、次の日の準備などなど。
毎日自分がしていたことを入院中にどうするのか。

段取りを整える必要があると思った。
「1週間待ってください」と部長先生にお願いした。

子宮頸がんと言われたときは、
思いもしなかった言葉に一瞬、
時間が止まったように感じた。

だが、次の瞬間から、入院・手術の間、
仕事と家庭をどう回すのかを頭の中で忙しく考え始めていた。

冷静だったのか、と言われると少し違うと思う。
自分ががんだということがどういうことなのか、まだ実感していなかったのだ。

ちょっと長い出張にどうしても行かなければならないと決まったので、
留守中どうするかを算段している感じだった。

まず、家族にどう話すか。
夫にはありのままに話す。
まあ、手術すれば元通りだと思う、と伝えた。
その時は本当にそう思っていたから。

子供たちには、
ママに病気がみつかって、
入院して手術しなきゃいけなくなったの。
でもちゃんと治るから大丈夫。
少しの間、我慢してもらうことになる。
ごめんね。
そんな風に話した。

その時の子供たちの顔は緊張していたが、
わかった、と言ってくれた。
それ以外は何も言わなかった。

ほんとうはショックだったと思う。
聞きたいこともあったかもしれない。
それを思うと今も胸が締め付けられる。

私の実家はJRの駅3つ離れたところにある。
両親にはがんになったので都立病院に入院すると伝えた。

この病院は、ちょうど実家と我が家の中間地点にあり、
両親もなにかと通っているところだ。
地域では一番大きな病院と言える。

母は私の夫と連携して、
子供の面倒を見てくれるという。
当時72歳。
息子が生まれてから何かと世話になっている。ありがたい存在だ。

ママ友数人にも事情を話した。
できることは何でも言って、と言ってくれた。

仕事に関しては、
クライアントに入院することを伝え、
担当していた作業を他のスタッフに代行してもらうことになった。
業務自体には大きな影響はなく、
ホッとしたのを覚えている。

私ががんで入院・手術すると打ち明けた人は一様に驚いた顔をしたが、
私が落ち着いて淡々と話すので、
淡々と受け止めてくれたと思う。

一番の気がかりはやはり子供たちのことだ。
私の入院中もできるだけ今まで通りの日常を過ごしてもらえるよう段取りを考えた。

レポート用紙の冊子を用意し、
日常私が行っている家事リスト、
頼みたい項目を書いて整理した。
夫や母とそれを見ながら打ち合わせをした。

息子の弁当用にご飯を小分けして冷凍。冷凍のおかずも買い込んでおき、
朝夫が詰めてくれることになった。
朝食と夕食は夫が買ってきたものを食べてもらうことになった。

ケンタッキーフライドチキンやホカ弁など、
いろいろお世話になったようだ。
時々、母がおかずを差し入れてくれたらしい。

洗濯は夫が帰宅後洗濯機を回して干し、
子供が帰宅後に取り込むことをルールにした。

娘の習い事の送り迎えは、
母が来られる時はお願いし、
それ以外は同じ教室に通う友達のお母さんにお願いした。

入院時期がもうすぐ冬休み、
というタイミングもよかったと思う。
息子は期末試験中で早く帰ってくるので、
娘ひとりのお留守番の時間が短くなり、
安心したのを覚えている。

退院は年末にかかる可能性があるので、
年賀状のデザインを決めて、
宛先とともに印刷を夫に託した。

こうして、入院中の体制は着々と出来上がっていった。

会社員時代、イベントの準備、
新製品発売に関わる準備などをチームで行う機会があった。
この入院準備もそんな感覚でやっていたと思う。

とはいえ、
今まで出産以外で入院したことのない私。
しかも、がんの入院・手術である。

不安は当然あった。
がん治療に関する書籍や子宮頸がんの闘病記ブログを、いくつも読んだ。

軽く済んだ人もいれば、治らなかった人もいる。
怖かったが、読まずにはいられない。

がん闘病記のポータルサイトを作ってくれている人もいた。
自分の経験を役立ててもらいたいと思うひとがこんなにいるんだな。
ただ、私のケースとまるまる一緒の人はいない。

私はどうなるのか、
闘病記を読んでも、想像もつかなかった。

入院に必要な便利グッズを紹介してくれているブログはとてもありがたかった。
たとえば、ティッシュやリップクリーム、眼鏡やイヤホンなど、
すぐ手に取りたい小物を小さいトートバッグに入れてS字フックでベッドの手すりに掛ける。

手術後は身動きできないので、とても役に立った。
S字フックはナースコールのスイッチを掛けたりもして、大活躍だった。

忙しく過ごした1週間はあっという間に過ぎた。今思うと、1週間でよくやったと思う。
それほど私はいつもと変わらず元気だったのだ。
こんな元気な入院患者がいるのか、と不思議な感覚だった。

このときはまだ、
自分ががん患者だという自覚が全然なかったのだ。

12月に入ってすぐ、入院グッズを入れた旅行バッグを持って、私は病院に向かった。

3.入院・手術

がんの告知から1週間後、
私は都立病院の産婦人科病棟に入院した。
もう20年前のことなので、
手術や治療の詳細については参考にならないかもしれないと思っている。

なので、入院・手術を通して感じたことなどを中心に書いてみたい。

入院から2日間はさまざまな検査に充てられた。
全身麻酔が差し支えないかどうかの検査や、
がんの転移がないかの検査だという説明だった。

この時の私は、
普段通り元気で自分が病人である自覚はない。

検査も専門医が担当することが多かったと思うが、公立病院ゆえなのか、
若い修行中と思われる人にあたることも多々あった。

看護師の方はベテランなのだが、
若い医者がおそるおそるという感じ。
検査中、「あれ?」などと声が聞こえるので、
私は痛みに耐えながら「新人くん、頑張れ!」と心の中でエールを送っていた。

「あれ?」がどんな状況になったのか詳細は教えてもらえなかったが、
終わった後ベテラン看護師さんが
「大変でしたね」と労わってくれたので、
何か不具合があった模様。

私は新人くんの練習台になってあげたんだな。
今は偉くなっているかな、と懐かしく思い出している。

病院は、もちろん患者が病気を治療する場所なのだが、
未来を担う若い人たちの修練の場でもあるのだな。
入院してみないとわからないことはたくさんあるのだな、
としみじみするくらいの余裕があった私だった。

さて、検査の結果、
がんの転移はなく他に特に問題がみつからないとのことで、
予定通り手術が行われることになった。

手術前日は執刀主治医(婦人部長ではなく、病棟担当の主治医)から説明がある。
どのような手術になるのか、
図を書きながら丁寧に説明してくれるのを夫と2人で聞いた。

私は子宮と卵巣、骨盤内のリンパ節を切除する
「広汎子宮全摘出術」を受けることになった。

話を聴くと怖い気もするが、
私は全身麻酔で寝ているうちに終わるので、
気が楽かもと思っていた。

よく、テレビなどで手術前の患者に
「頑張ってね」と声をかけるシーンがあるが、
私は寝ているだけなので頑張るのは執刀医や麻酔医など手術に関わる人だよね、
と思っていた。

ただひとつ、説明の中で
「ええっ?」と聞き返したことがあった。

「子宮を摘出するときに、どうしても排泄の神経を痛めてしまうので、尿を出すのが困難になります」
「この神経は再生しないので、元にはもどりません」。

術後の訓練である程度回復するという説明があったと思うが、これはショックだった。
このことについては、別の章で詳しくお話しようと思う。

手術当日の朝、
手術着を着て病室で待っていると
手術用のストレッチャーとともに看護師さんが迎えに来た。
麻酔のための注射を前もってしているので、
安全のため病室からストレッチャーで運ぶのだそうだ。

これもテレビでよく見るシーン。
ストレッチャーに載せられ、ガラガラと手術室に運ばれる。
夫と手を握り合う感動のシーンがあるかと思いきや、
彼はそそくさと家族用待合室に入ってしまい、
私はひとりで運ばれる羽目に。
ちょっとがっかり。

手術中は、家族が病院内にいることが求められる。
私の手術は8時間弱の予定だったので、
夫はPCを持ち込んで仕事をしていたようだ。

手術室には青いスクラブと帽子、マスクをした執刀医が迎えてくれて、手術台に乗る。
丸い無影灯を見上げている私。
麻酔用のマスクが付けられ数を数えてくださいと言われる。

3か4まで数えたと思うがその後の記憶はない。

次に目覚めたとき、
術後治療室で私はたくさんの管が身体に繋がっていて身動きが取れない状態だった。
ああそうだ、私は手術を受けたのだった。
そう気づいた。

夫と私の両親が私を見下ろしている。
部屋は暗く、今何時かもわからない。
口にも酸素マスクが付けられていてうまくしゃべれない。

術後の最初のひと言は「寒い」。
目覚めてすぐに、身体が震えるほど寒さを感じていた。
看護師さんが毛布を追加してくれて、
私は再び眠ったようだった。

入院中、最もお世話になるのは看護師さんだ。

術後治療室で、たくさんの管に繋がれている私は、寝返りを打つこともできない。
看護師さんは、ひんぱんに体の向きを変えてくれていた。

「痛いところはないですか?」
「今、麻酔が入っているのですが、痛いのなら増やすこともできますよ」
と声をかけてくれる。

初めての手術で、
今自分がどんな状態なのかもわからないままひとりで横たわっている私は、
その声にどんなに救われたかわからない。

手厚い看護を受けて一晩過ごし、
次の日には一般病棟に戻された。
手術後はしばらくゆっくり寝ていればいいのかと思ったが違った。
すぐ起き上がることを求められる。

管がついていようが、傷口が痛かろうが。
身体を起こした後は、ベッドに腰掛け、
そして立ち上がって次は歩く。
じっとしている時間が長いほど回復が遅れるそうだ。

ソロソロとゆっくりゆっくり動く。
私は術後、貧血もあったのでフラフラする。
手術前には何気なくできていた動作がこんなに大変だなんて。

看護師さんは傍で優しくそして厳しく励ましてくれた。

主治医は1日に1~2回様子を見に来てくれるが、
会う回数が多いのは圧倒的に看護師さんだ。
夕方シフトが変わって夜間担当の看護師さんが挨拶に来てくれる。
数日前に私と話したことを覚えていてくれてその続きを話してくれることもある。

看護師さん、カッコいいな。
薬や食事の管理、熱や脈拍をはかり、点滴のルート取り。
てきぱきと動き、笑顔で話しかけてくれる。

仕事を正確にこなしたうえで、
時間があるときは世間話をするなど、
ひとりの人間として接してくれる。

おおげさに言えば命を預け、
全幅の信頼を寄せるに値するプロフェッショナル看護師さんばかりだ。

食事も重湯から始まっておかゆ、普通食と回復していく。
食事するのも疲れてしまっていたのが、
だんだん完食できるようになっていく。

ようやく洗髪の許可が出て、
看護師さんが洗髪用の洗面台で髪を洗ってくれた。
ああ、髪を洗うってこんなに気持ちいいんだな。

食べること、歩くこと、髪を洗うこと。
すべての動作が愛おしく感じた。
歩けるようになった私は点滴台と一緒に廊下をゆっくり行ったり来たりした。

先に、「入院してみないとわからないことがある」と書いたが、
一番の気づきは、
病院は「生きるための場所」だということだ。

たとえ死の危険がある状態の人であっても、
生きるために病院に来ている。
生きるために治療を受け、リハビリに励む。
それを助ける医療従事者のプロフェッショナルたち。

病院は、「生きる」ためのプロジェクトをチームで行う、とてもポジティブな場所だったのだ。

4.排尿訓練

手術前の説明で、子宮を取る手術をすると排尿や排便に関係する骨盤内の神経が切断されたり、傷ついたりすることによって、排尿障害や排便障害が生じることを知った。

具体的には、膀胱に尿が溜まってトイレに行きたい感覚が失われること、膀胱を収縮する力が弱まることなどが説明された。

これはかなりショック。がんを取ってしまえばおしまい、と思っていたのに、障害が残ってしまうとは。

もちろん、ここで後戻りはできない。私は予定通り手術を受けた。

手術直後は、バルーンカテーテルが付いていてトイレに行かなくても尿が排出されるようになっている。

起きて歩けるようになったころ、看護師さんから「バルーンを取って排尿訓練を始めましょう」と話があった。

カテーテルを取ってもらう。指導された通りたくさんお水を飲んで数時間。尿が溜まった感じはしない。とりあえずトイレに行ってみる。

おむつが取れてトイレに行く習慣が出来てからこの時まで40数年、トイレに行ったら何も考えずに尿を出すことができていた。
ところが、1滴もでない。

前かがみになって下腹部を押すとよいと教えられたのでやってみてもダメ。
かなりの時間格闘し、疲れ果ててトイレを出た。

実は、子宮頸がんの手術を受けた人は、排尿訓練をクリアしないと退院できない。
このことも手術前に話があった。

どれぐらいの期間がかかるのかは知らされなかった。
すぐにクリアする人もいれば、長くかかる人もいる、ということらしかった。

排尿ができない場合、看護師さんが尿道からカテーテルを挿入して導尿してくれる。

そして残尿検査と言って、膀胱内に残っていた尿の量を測る。残尿が連続して3回50ccを下回らなければ退院できないのだ。

排尿訓練初日、自力で1滴も尿を出せなかった私に、先輩患者のみなさんが慰めてくれた。

「私だって最初は1滴も出なくて1時間トイレにいたわ」
「すこしずつできるようになるから焦らないで」

先輩患者のみなさんは、
同じ子宮頸がんや子宮体がんで、術後の化学療法で定期的に入院している方や、1回の手術ではがんを取り切れず再手術で入院している方、そして再発治療の方たち。

排尿訓練をクリアし、さらなる治療に立ち向かう勇者たちだ。
自分のことだけでも大変だと思うのに、おしっこを出せないとメソメソ落ち込む私に優しく声をかけてくださる。

婦人科病棟の入院患者は、同室の方はもちろん、廊下や面会室で出会うとすぐ打ち解ける。
あっけらかんとご自分の病状を話してくださる。中には私よりかなり深刻な状況の方もいる。

残尿検査をクリアし、晴れて退院が決まった患者には、みんなでおめでとうを言う。
一緒に病気と闘う同志のような間柄だった。

12月はじめに入院、手術した私。
できればクリスマスまでには退院したかったが、叶わなかった。
排尿訓練の困難に加え、術創(手術後の縫合部)のトラブルがあったためだ。

でも、年内にはどうしても退院したい。
お正月は子供たちと家で迎えたい。

私は来る日も来る日も排尿訓練に取り組んだ。

私の場合は、ウォシュレットのお湯で尿の出口を刺激したのち、前かがみになり息を吐きながら腹圧をかける方法が有効だった。
最初にちょろちょろ尿が出たときの感動は忘れがたい。

それから、少しずつ尿を出せるようになり、残尿量が減っていった。

こうして私は無事、年末に退院することができた。

もう、普通に尿を出すことができない体になったことは、深い喪失感があるが、私が私でなくなった訳ではない。

私はこの体で45年生き、子宮頸がんの手術で子宮・卵巣・骨盤内リンパ節を切除し、排泄の神経を損傷した。

子宮頸がんの診断を受け、子宮・卵巣を摘出すると言われたときは、「もう、私は女ではなくなるのかな」と考えたこともあったが、手術後も私は私のままだった。

それから20年。いまだに排泄については工夫が必要で、ときには切ない気持ちになる出来事があるが、この身体で私は生き続けている。

そもそも「普通」とは何か。

病気や怪我などで、身体の機能が失われたら、その人は普通ではないのか?
まあ、大多数の人とはちょっと違ったりちょっと不便なこともあるだろう。

でも、その身体はその人にとっての普通なのだ。
普通とは、その人だけの「日常」といえるかもしれない。

そもそも手術をする前もまるで完ぺきではなかったし、できないこともいっぱいあったではないか。
今回の手術で排泄に(で)人より工夫が必要、という特徴が加わっただけだ。

病院で病気に立ち向かう勇者の中には、もう治療の方法がありませんと言われて緩和病棟に移る人もいたし、ある朝ベッドが空になっていることもあった。

病院は生きるための場所だが、死も身近にある。

人は誰もが死を迎える。それまで生きることに前向きであるべきだと、入院仲間の彼女たちを思い出すたびに強く思う。

生きることと死ぬことは表裏一体だ。
私はたまたま生かされている。
生きられなかった入院仲間のためにも、生きている私は自分の人生を味わいつくそう。

おしっこがふつうに出ないくらい、どうってことない。

5.病理検査後面談と退院

どんな病気も同じだと思うが、手術してみないと分からないことが多いという。

私の場合も、手術前の検査では「だいたいこんな感じ」という説明があり、手術に臨んだ。

実際はそんな適当なことではなく、腫瘍マーカーやMRI検査など、できる限りの検査をしての結果なので、大きく外れることはないと思うが、でも「開けてみないとわからない」部分はあるという説明だった。

手術で、がんができている子宮頚部と子宮・卵巣・骨盤内リンパ節を切除した。切除されたものは、病理検査にまわされて詳細な検査が行われる。

その結果を聞く日。手術前日の説明の時と同じように夫も呼ばれて2人で執刀主治医と面談室に入った。

「悪いところはすべて取り除けました。」
「手術による出血が原因の貧血も改善してきており、排尿訓練も順調です」とひとまず安心できる言葉から始まった。

ホッと胸をなでおろす間もなく、「ただ…」
ドキっとする。

「切除した血管にがん細胞がいました。血管にいるということは、血流に乗ってがん細胞が別のところにいる可能性があるということです」

「がん細胞は、扁平上皮がんと腺がんの2種類が存在しました」

「このことから、1か月に1回、予防的処置として半年程度化学療法を行ってがん細胞をたたきます。2種類のがんに対応する薬はかなり強いため、1週間程度の入院をしてもらって治療します」

「あなたのがんのステージは2bになります」。

このときの衝撃は、最初に子宮頸がんですと伝えられた時より大きかったと記憶している。

手術によってがんは体からいなくなって、排尿訓練さえクリアすれば家に帰れて、元の生活に戻れると思っていたのに。

ここまで読んでくださった方は、私は比較的メンタルが強めだと感じた方もおられると思う。

実際は違う。

入院中、私は2回泣いた。

1回目は、抜鈎(傷口を止めているホチキスのような金属を取り除く処置)後、手術創にトラブルがあることが分かったとき。

思いもよらない事態に、泣き出してしまった。泣き出したら今まで起こったいろいろなことが思い出されて、「なぜ、私だけこんな目に合わないといけないの?」という気持ちになり、しゃくりあげてしまい、そうなったら止まらなくなった。

そして過呼吸を起こし、看護師さんに肩を押さえてもらい「ゆっくり深呼吸して」とガイドされてようやく収まった。同室の方はさぞ驚かれたと思う。

その後適切な処置をしていただいて、あんなに泣くほどのことではなかったと知った。
大げさに泣いて感情を爆発させたおかげでそのあとスッキリしたが、今後は周りに迷惑をかけないように気を付けようと思った。

2回目に泣いたのはこの病理検査後の面談で、半年の化学療法が必要と言われたあと、病室に戻った時。

この時は、静かに泣いたと思う。隣のベッドの方に気づかれないように。

抗がん剤の点滴って辛いんだよね。テレビドラマで見たことあるもん。
あれを半年もやるの??
いやだ!いやだ!いやだよお。

その晩、私はそんな幼児のような言葉を頭の中で繰り返しながら泣き続けた。
化学療法で定期的に入院してくる入院仲間の勇者たちの存在も、この時の私には効き目がなかったようだ。
 

次の週末、夫が面会に来てくれた時、
「私、化学療法するのいやだ」「転移している可能性があるのかないのかわからないのに」と言った。

夫は何言ってるの、という顔で
「転移の可能性がゼロではないからするんでしょ。あとからしておけばよかった、と思っても遅いんだよ」と言った。

うん、正論です。そう言うってわかってた。
私は、黙り込むしかなかった。

「辛いかもしれないけど、子供たちのためにもがんばろうよ。ぼくも応援しているから。」
期待していたこういう優しい言葉を持ち合わせていない夫。

私の入院で充分頑張ってくれていて、
さらに半年の治療が続くことで負担も大きくなるのに、淡々と答えてくれたのは、彼なりの愛情だったのかも。

こう思えたのは、ずっとずっと後のことだけれど。

化学療法中の入院仲間たちに顛末を話すと、
「また、会えるわね!」「大丈夫よ、またいろいろ教えるから」
と、肩に手を置いて優しく言ってくれる。
私はうつむいて涙を見せないようにした。

そうだよね、生きるための勇者たちに、私も加わるしかないよね。
誰だって辛いことはいやなはずだ。
それなのに、この人たちの優しさはなんだ。

こうやって仲間を励ますことができるくらい私も強くなりたい。

化学療法は、退院1か月後、年明け1月後半にスタート、と決まった。

こうして、年末に私は退院した。

お正月は子供たちと家で過ごしたいという願いは叶った。
ただ、1か月後またここに戻って来なければならないけれど。

嬉しいけれど、気が重い。そんな気分だった。

荷物を持ってくれた夫が病院の駐車場に向かって先に歩いていく。
どんどん夫の背中が遠くなる。

病院の廊下を往復したり、階段の上り下りもたくさんしたはずなのに、歩くスピードをこれ以上速くできない。
「待ってー」という声も小さくしか出せなくて、周りの音にかき消されて夫に届かない。

1か月近くの入院で、私の体力は思った以上に弱っていたようだ。

それでも、太陽がまぶしくて気持ちがいい。
期限付きだけど、娑婆(しゃば)に出てきたよー。
私は空を見上げてつぶやいた。

やっと夫が気づいて引き返してくるのが見えた。

6.化学療法の6カ月・脱毛

実は、この6カ月のことは、これまで書いてきた入院・手術の期間と比べて、記憶が曖昧になっている。
たぶん、退院して日常に戻ったからだと思う。

もちろん、入院前と同じ体調に戻れていたわけでは全然ないけれど、仕事をして、家族と暮らしていれば、やることは目の前に積みあがっていく。

家族や友人に協力してもらいながら、日々まわしていく必要がある諸々のことにただただ必死で取り組んでいた。

最初はゆっくりしか歩けなかったけれど、気が付けばずいぶん速く歩けるようにもなっていた。
暮らしの諸々が、私の回復の後押しをしてくれていたのだと思う。

年末に退院し、お正月を家族と過ごし1か月。

化学療法のための入院の日がやってきた。

これから1か月に1回、5~7日間入院して抗がん剤の点滴を受ける。

ここでお話しておきたいのだが、同じ子宮頸がんでも種類やステージによって抗がん剤のブレンドが違うし、身体への影響もケースバイケースだ。

なにしろ20年前のことであり、ここでお話するのは、あくまで私の経験とその時私が感じたこととして読んでいただければと思う。

入院してすぐ血液検査を受ける。
抗がん剤治療ができる状態かどうかを確かめるのだ。
抗がん剤は骨髄にも影響するので白血球が減少する。白血球が減少しすぎたり、貧血や他の臓器の不具合があれば抗がん剤治療は中止になる。

いつも「中止にならないかなあ」と期待しながら採血に臨んだが、残念ながら半年間私の血液は合格続きだった。

初日はまず吐き気防止などの準備の点滴。
本番の抗がん剤の点滴は1~2日。
その後2日は「流し」と言われる生理食塩水の点滴、その後また検査をして退院という流れだ。

抗がん剤は猛毒なので、血管以外の部位に入ってしまうと大変なことになるという。そのため、点滴の針の近くにセンサーが付けられる。

点滴の針がずれたり外れたりしたらセンサーが反応して鳴るしくみだが、センサーが鋭敏すぎてちょっと動いただけでもピーピー鳴る。

腕が痒くても掻くこともできず、くしゃみや咳もできず、ストレスだった。

薬なのに猛毒なの?と当時思っていたが、抗がん剤を受けた人は一定期間献血ができないと知って、スゴイものが体内に入ったんだなあ、と驚いたことを覚えている。

初回の化学療法は吐き気もそんなになく、点滴中は手術時の入院仲間が代わる代わる会いに来てくれたりして、楽しく過ごしたのを覚えている。

点滴後の検査も問題なく、順調に退院した。

2回目の治療開始までの間に、私にはひとつやることがあった。

それは、脱毛の対応だ。
主治医から、2回目の化学療法あたりから脱毛が始まると言われていた。

入院中や家にいるときは、ニット帽やバンダナを巻いておく人が多い。
そうしないと、脱毛中は髪の毛が周りに散らばってしまう。
ただ、外出時はウィッグ(かつら)を利用する方が、周りに気を遣わせなくていいと思った。

最初はデパートに入っているウィッグ店に電話で問い合わせ、脱毛に対応する商品があるというので、来訪日時を伝えた。
やはり他のお客さまがいる中で脱毛のことを話すのはちょっと嫌だと思ったからだ。
そう伝えると電話に出た店員は大丈夫ですと答えてくれた。

ところが、約束の時間に行くと、店員は他のお客さまの対応中。ずっと待っていたけれど、店員は気にかけていない様子だった。ちゃんと電話したのに、と悲しくなった。

ようやく私の番になったが、私の電話については伝わっていなかったようだ。その店員は化学療法の脱毛についても知識が無い人のようで、対応もちぐはぐ。
がっかりして帰ってきた。

何かの行き違いがあったのかもしれないが、今もその店の前を通ると当時を思い出して悲しい気持ちになる。

がんになって、化学療法で脱毛することなんて、あの店員さんにとっては別世界の話なんだろうな。
ウィッグの専門店の店員さんもそうなのだから、世の中の人にとっては私はとても特殊な状況なんだろう。

入院中は周りに仲間がいて心強かったけれど、病院を出たらがん患者なんて身近にいないもの。そう思うと急に孤独感が大きくなった。

デパートでウィッグを買うことができなかった私だが、行きつけの美容院に予約を入れ、ショートカットにすることにした。
私は髪が多く、短くしておいた方が抜け毛の処理が簡単だと先輩入院患者に教えてもらっていたからだ。

美容院に予約を入れるとき、がんの治療中だということ、次回の治療中あたりから脱毛が始まることを話した。いつも髪を切ってくれているオーナーが「それなら、他のお客さまが帰った後の方がいろいろ話せるでしょう」と言ってくれて閉店後の時間に予約を入れてくれた。

ウィッグ店の対応に孤独感を感じていた私にとって、このオーナーの言葉は涙が出るほど嬉しかった。

誰もいない美容院で、オーナーが髪を切ってくれた。
そして「同じようなお客さまは何人もいますよ」「ウィッグもこちらで良ければ手配します」と言ってくれた。

ウィッグって美容院で買えるんだ。オーナーがいくつか私に合うものを用意してくれると言う。

2回目の化学療法が終わって、またその美容院に行った。
脱毛が始まっていた私の髪をそうっと優しく扱いながら、ウィッグを付けてくれる。

すこしブラウンがかった髪色のふんわりしたショートのウィッグが一番自然に見える気がしてそれを選んだ。
オーナーはそのウィッグを私にかぶせた状態で、顔の周りの長さを調整してくれる。

そのウィッグは人工毛のもので、ウィッグ店で売られていた人毛ものよりかなり安かった。
オーナーは「人工毛の方が軽くて蒸れにくいし、簡単に洗えて扱いやすいですよ」と教えてくれる。

ウィッグ店の人はそんなことも教えてくれなかったよ。私は完全に行く店を間違えていたんだな。

こうして、私はお気に入りのウィッグを手に入れた。
まずウィッグ用のネットをかぶり、ウィッグをピンでネットに固定するように付ける。

主治医の言う通り、私の脱毛は2回目の化学療法の入院中に始まった。
抗がん剤が毛髪根にダメージを与えるために起こる。
薬が効いている証拠ということでもあるらしいが、それは想像を超えるものだった。

ふだんシャンプーやブラシを使うときに髪が抜けるが、それとは全然違う。
抜ける、というより、「髪が頭皮から外れる」というかんじ。なんの抵抗もなく大量の髪の毛がごっそり頭皮から離れていく。

入院仲間から、掃除に使う「コロコロ」(粘着シートをコロコロ回してほこりを取る道具)を用意しておくといいよ、と教えてもらっていた。朝起きると枕回りに大量の髪が落ちているのだ。小さいものだとすぐひと巻きが終わってしまうほどだった。
きれいに掃除したつもりでも、髪が床に落ちてしまう。

病室の掃除に来てくれる人に「たくさん髪が落ちてしまってすみません」と謝ったら、「そんなこと、謝らなくていいんですよ。ここでは普通のことですから」と言ってくれた。

お風呂でも髪を洗おうとすると髪が排水溝をふさいでしまう。
ビニール袋を持ち込んで排水溝の髪を拾って入れながらシャンプーした。

髪が残っている時はウィッグが安定するのであまり気にしなくて良かったが、髪が残り少なくなってくるとウィッグの下のネットごとずれてしまう。

この頃には私も慣れてきていて、ずれたな、と思ったら間髪入れず元にもどす技を体得していた。風が強い時はキャップやスカーフで頭を覆ったり、パーカーのフードをかぶったりした。

周りの人の視線が気になったことはなかった。見て見ぬふりをしてくれていたのか、私が気づかなかったのか。

まあ、自分が思っているほど人は私の髪をつぶさに観察などしないのだ。
ちょっとぐらいウィッグがずれていたって、大丈夫、気にすることはないのだった。

化学療法が終わって3か月後、私の髪は復活した。

ウィッグ無しのベリーショートの髪で思うがままに風に吹かれて、外を歩くのは気持ちが良かった。

7.化学療法の6カ月・続き

話を化学療法に戻そう。

1回目の化学療法は、思っていたより辛くなく、最初の手術入院で知り合った入院仲間との再会もあり余裕で過ぎた。

だが、回を追うごとにキツイと感じるようになった。
嘔吐まではいかないのだが、ムカムカする感じが続く。
身体がだるく、重い。テレビを見るのも疲れてしまう。
眠りたいのに、眠れない。

脱毛以外の症状はそれくらいだったので、キツイ部類に入らないのかもしれないが、じわじわと私の心を暗くするのには充分だった。

点滴は昼間の4〜5時間で行われた。
その間はベッドに横たわり、点滴針がついている腕が固定されてセンサーもつけられているので、本を読んだりゲームをすることもできず、じっとしているしかない。

点滴を見つめていると時間が経つのがゆっくり過ぎてイライラしてくる。
規則正しく落ちる点滴の粒に「早く落ちろ!」と心の中で罵声を浴びせてみたりしていた。

回を重ねると点滴の仕組みも理解できていたので、一度は、本当に点滴のスピードをあげちゃおうか、と目論んだこともあった。理性が邪魔をして未遂に終わったが。

点滴以外の時間は起き上がって食事をしたり、入院仲間とおしゃべりしたりできる。
点滴中イライラして辛いことを話したら、「鎮静剤をもらうといいよ」と先輩患者が教えてくれた。
早速看護師さんに頼んで軽い飲み薬を処方してもらう。

私にとってはこの薬は救いだった。
身動きができない点滴中、ウトウトしていられる。

いままでの人生、「適当にやり過ごす」ことが苦手だったのかもしれない。
予防接種も採血も、自分の腕に針が刺さるところを凝視せずにはいられない。
腕は緊張で力が入り、目は見開いてまばたきもしないので「力を抜いて!」と毎回言われるほどだ。

辛くなるくらいなら、点滴にまで正面から向き合わなくてもいいのだ。
身体の中で薬ががん細胞を叩いてくれている間、私はお気楽にウトウトしていたらいい。
その方がずっといい。

退院前の「流し」の点滴(血中の抗がん剤を排出させるための点滴)のおかげで、退院時には体調もほぼ戻り、吐き気もほぼ収まっている。口の中がカラカラになる症状があったが、これは副作用のようだった。

化学療法の1週間の入院中は、夫、母、子供たちが協力して家事を分担してくれていたようだ。
買い物の大半は前の週に生協で注文しておくと箱に入って玄関先に届くので、夜帰宅した夫が冷蔵庫に入れる流れ。その他足りないものは夫が買って帰ってくれていたようだ。

しかし私が退院して帰宅すると家事サポートチームはすぐさま解散、家事タスクは私の前に積みあがる。
帰ってくれば日常。さっきまで病院で点滴をしていたのに、夕方は家でとんかつを揚げている。

息子のお弁当作り、娘が当時通っていたバレエ教室への送り迎え。洗濯、食事作り。
宿題の丸付け、塾代などの各種振込み。

元々家事は苦手で時短・適当にやっていたのだが、それに拍車がかかった。
なんとか最低限のことをして乗り切れたと思う。

息子の中学、娘の小学校の保護者会、バレエの発表会の受付などの裏方仕事、中学受験のための文化祭巡りもこの時期と重なっていたが、ウィッグをかぶってすべてこなしていた。

困ったのは娘の小学校の親子レクリエーションという、親子一緒に身体を動かすイベント。
ウィッグをつけ、尿漏れを気にしつつ、飛んだり走ったり。

出来ると思っていたけれど、身体が動いてくれない。ママ友の失笑を買うぐらいのダメダメな母を、娘はどんな気持ちで見ていたのだろう。

在宅ワークで受けていた仕事も入院中以外はやっていた。
今までより作業スピードが落ち、チームのみんなにサポートしてもらった。
休んでしまうともっと出来なくなると思い、続けよう、と決めていた。

こんな感じで化学療法の6か月を過ごした。

今思い返すと、我ながらよく頑張っていたと思う。

もっと弱音を吐いて周りの人に助けてもらってもよかったのでは、とも思う。

でも、治療を理由にいろいろなことをあきらめたくなかったんだろうな、と健気な当時の自分を抱きしめたくなる。

8.入院仲間のこと

私は、手術と排泄訓練で25日入院、そして化学療法のために3週間ごとに1週間の入院を6回経験した。

すべて自宅から車で30分ほどの都立病院の産婦人科病棟に入院していた。
ワンフロアの病棟には、切迫早産など入院が必要な産婦さん、そして子宮系の病気の人が入院していた。

産婦さんはその他の患者とは部屋が分けられていたし、ジャンルが違うのでなんとなくお互い接触はしなかったように思う。
子宮筋腫や軽度の子宮頸がんの人たちは短期で1回の入院だけで済むので、同室になったらお話はするけれど、それきりの間柄になる。

ただ、私のように進行したがんで排泄障害がおこる人、そして1度の手術ではがんが取り切れなかった人、そして化学療法が必要な人は、長期にわたって入院する必要がある場合や入院を繰り返すケースが多いので、自然と顔見知りになる。

とはいえ、お互いきちんと自己紹介するわけではないので、その人がどんな人生を歩んできたかは分からない。名前は病室やベッドの枕元に表示されるので、名字で呼びあっていた。

今でも思い出す入院仲間について書いてみたいと思う。

Aさんは50~60代くらい。とても明るく、世話好きで私が新入りの頃よく話しかけてくれていた。ひとり暮らしで、社会人の息子さんがいるらしい。

私と同じ子宮頸がんで、手術は2回受けていて、化学療法、放射線治療とフルコースやっているのよ、と笑っていた。
聞けば、出血を繰り返していたのに病院に行かずにいたそうだ。そんな、がんになっているなんて思わなくて。もっと早く来ていればね、と少し寂しそうに言っていた。

お友達がよくお見舞いに来ていて賑やかだった。息子はなかなか来てくれないけれど、こうやって友達が必要なものを届けてくれて助かるのよと言っていた。

私が化学療法で落ち込んでいると、心配そうに部屋に会いに来てくれてもいた。
今思うと私なんかより、ハードな治療を受けていたはずなのに。

化学療法終了後、定期的に検査に通っている時、外来の待合場所でAさんを見かけた。
私が知っているAさんとは様子が違った。ぐったりと椅子にもたれて辛そうだ。尿バルーンもついていた。私に排尿訓練のコツを教えてくれたのはAさんなのに。

私は彼女の後方に座っていたが、声をかけることができなかった。
後ろから、Aさんが元気になってくれますように、と何度も祈った。

Bさんは、化学療法が辛いと言う私に、鎮静剤をリクエストするよう勧めてくれた人だ。
子宮体がんで1度の手術ではがんを取り切れず、2回目の手術を待っているという。
小学生を頭に3人のお子さんがいるという私より少し若い感じの方だった。

子供が面会に来ていたが、病室には子供は入れないのでみんなが集まる面会室で子供たちと話しているのを何回か見かけた。
子供が帰った後、廊下で会った時「子供たちのためにも生きて帰らなきゃと思って頑張っているんだけどね。先が見えないと時々不安になるわ」とそっと弱音を漏らしてくれた。

Cさんは30代くらい。上品な美人さんで旦那さんが毎日面会に来ていた。
だんだん病室から出られなくなっていき、私が会いに行くと、「もうここでは治療できることが無いと言われたの。緩和病院に移るわ。あなたは元気になってね」と言われた。
そして、静かに涙を流した。

私はなんと言っていいのかわからなくて、ただCさんの手を握るしかできなかった。

Dさんは入院仲間のなかでも元気いっぱいの人。40代、独身だと言っていた。
化学療法で髪の毛がなくなった頭にきれいな色のバンダナを巻いていた。
私と同じ子宮頸がん。大きな声で笑い、いつも入院仲間の中心にいた。

職場で、子宮がんに罹る人は男にだらしない人だと言われたと怒っていた。
未だにそんなこと言う人がいるんだ、ここのみんなを見れば違うってわかるよねー。とみんなで口々に会ったこともないその職場の人に反論した。
がん患者への偏見はまだまだ根強かったのかもしれない。

彼女とは住んでいるところが近かったようで、退院後しばらくして街でばったり会った。
お互いにベリーショートの髪で、良かった元気そうで、と握手して別れた。

このほかにもたくさんの入院仲間がいる。
もちろん、元気になって退院していく人はたくさんいた。私よりステージが上だったのに、みるみる回復して退院していった人もいる。

入院仲間とは連絡先を交換しなかったので、彼女たちがその後どのような人生を送っているのかはわからない。めぐりあわせで同じ病棟にいて、生きるための闘いを共にしていた仲間たちが、日常に戻って幸せに生きているといいな、と時々思い出している。

入院中、亡くなる方もいた。
看護師さんなど病院側の人は何も言わないが、ある日ベッドが空になっていて、ああ、亡くなったんだな、とわかる。退院ならみんなに挨拶をするから、そうでない場合は寂しい気持ちになる。

ある夜、個室に入っている人の親族たちがその人を呼び続けることがあった。
「○○ちゃーん!行っちゃダメ。」「戻ってきて!」
入院病棟のドアは開いていることが多く、声は筒抜けだ。

面会時間はとうに過ぎているので、危篤状態だから特別に呼ばれたのかもしれない。
その声で眠ることができなくて、ずっと聞いていたけれど朝には静かになっていた。
近しい人に呼び戻されていればいいな、と思ったが、その後どうなったかは分からなかった。

このように、死が身近にあるのもがん病棟だ。

治らなかった人と、回復した人。
その違いは何か。

治らなかった人は、何か悪いことをしたのか?不摂生だったのか?
そもそもがんに罹る人は何か問題があったのだろうか?

私はすべてNOだと思う。
入院仲間はみんな生きることに前向きで、優しくて、強さもある人たちばかりだった。
単なる確率の問題というだけのことだ、と思う。

誰にでもがんになる可能性があるのだ。
たまたま、がん患者になってしまっただけ。

元気なあなたも、がんサバイバーも、闘病中の人も、今を生きている。
同じなのだ。

9.死について

私はがんの診断を受けるまで、死というものときちんと向き合って、考えたことはなかった。

病院でがんです、と言われたとき、そして病理検査の結果ステージ2と言われたときは自分は死ぬかもしれないのかな、と思った。

最初は恐怖よりも今死ぬわけにはいかない、という義務感というか、戦闘意識の方が大きかった気がする。
がんで死ぬ、ということが現実的に感じられなかったせいでもあるように思う。

ただ、がん病棟で闘病仲間が亡くなることが何度かあると、急に死というものが身近に感じられるようになった。

前にも書いたけれど、生と死は同じフィールド上にあって、どちらに行くかは「たまたま」でしかない、という感覚だ。

何か悪いことをしたから、死ぬことになるわけではないのだ。
たまたまの巡りあわせで生と死が分けられる。

たまたま、がんの手術のタイミングがぎりぎりセーフで全部取ってもらえて、抗がん剤が効いて私は生きている。

死んでしまった闘病仲間はたまたま、がんの手術のタイミングや、がんの種類や位置がよくなくて取り切れず、抗がん剤が効く前に血管に乗って他のところに移ってしまったのだ。

亡くなった人が何か悪いことをしたわけではもちろんないし、私が善行を積んでいたから助かったわけでもない。

人はいつか必ず死ぬ。

ただ、死や病気を運命と受け入れるのは、何か違う。

やっぱり生きたい。元気になりたい。
そう思うのなら、精一杯抗いたい。
そのための戦い方も自分で選びたい。

生きられなかった仲間の分までちゃんと生きよう。
自分の命をきちんと使い切ろう。
そう思うようになった。

どういう生き方をしたいのか。
そしてどういう人生の終わりを迎えたいのか。

私はがんに罹ったおかげでそれを考えざるを得なくなった。
がんは、私の人生に大きな影響を与えた。
得たものは多くある。

でも、がんになってよかったとは思わない。

10.通院検査・再発の恐怖

6カ月の化学療法を無事に終えた日。

ああ、ついに私はがんの治療を終えたのだ。バンザーイ!
わたし、よく頑張った。
生きて、ここまで来られた。本当によかった。

そんな解放感で病院を後にした。
ただし、次の外来予約をし、それまでの薬を処方されて。

私の場合は体調にそれほど問題がなく、便秘薬と更年期対策の漢方薬のみだった。
子宮摘出手術の影響で排泄の神経を損傷していると便秘も要注意だ。

お腹の手術をしていると、腸閉塞にもなりやすいので、排泄の管理は入院中からきっちりやるよう叩き込まれている。

がんは、治療が終わっても「治りました」という言葉はもらえない。
がん細胞が身体の中から一掃されたという保証がないからだ。
どこかに潜んでいたがん細胞が、別の臓器で増殖を始める可能性が残されているのだ。

がんの闘病記を読むと、再発したがんの治療はさらにハードになっていく。
がんセンターのデータを見ると、生存率もガクッと下がる。
再発だけは、それだけはどうしても避けたい。

再発がないかどうかの検査は、外来で受ける。
内診、細胞診、血液検査がセットだ。

当初は1か月に1回。
しばらくして3か月に1回、そして半年に1回。
徐々に間隔は開いていく。

検査も手術をしてくれた主治医が行うことになった。
これからも、長いお付き合いになるのだ。

内診のエコーで膀胱の残尿状況や、お腹を外から圧迫して臓器の様子を調べ、
子宮頸部分の細胞を採取する。
そして診察室の椅子に戻って体調を聞かれる。
更年期障害や排泄障害のことが多かったかな。

そして、ちょっとした雑談。
入院中は独身だった主治医の左手指に指輪を見つけてお祝いを言ったり、
入院中病棟に来ていた娘が中学生になった報告をしたり。

最後に腫瘍マーカーのために採血室へ行ってその日は終了。

1週間後に検査の結果を聞きに行く。
細胞診は「問題なし」が常だったが、
腫瘍マーカー(がんによって異なり、私は3種類調べていた)のひとつが
キュッと上がることがある。

「マーカーが上がっているので再検査して帰ってください」と言われ
採血室へ。
そしてさらに1週間後検査結果を聞きに行く。

この1週間は恐怖とともに過ごすことになる。
なんでマーカーの数値が上がったのかな。
再発しているのかな。また入院なのかな。

再発したら治療は長引くし、今度こそ死を覚悟することになるのだ。

判決を待つ囚人の気持ちだ(囚人になったことはないけれど)。

それでも、日常のタスクはやってくる。
目の前のやるべきことに紛れているけれど、
ちょっと油断すると恐怖が顔を出す。
夜中に目覚めて、恐怖に包まれて眠れない。

夫に一度だけ、怖いと伝えたことがある。
「前も同じことあっただろ。今度も大丈夫じゃない?」と軽く流されてしまった。
結果を聞くまで怖がることは無駄、と言われた感じだった。

まあ、あなたはがんになったことないしね。
そう思って二度と家族に怖いと言わないことにした。

そして1週間後、再検査の結果を聞きに行く。
「数値、下がってました。大丈夫でしたね。では次回の予約をして帰ってくださいね」と
主治医がにこやかに伝えてくれて、ホッと胸をなでおろす。

再検査でもマーカーの数値が上がったままだと、再発が疑われる。
がんになっていれば下がることはないからだ。
でも、再検査ではいつも下がっていた。

「先生、この数値が一時的に上がるのってどうしてですか?」と聞くと
「いろいろな要因があるようで、わからないんですよねー」とにこやかに返される。

わからないって、私、この1週間囚人気分だったんですけど、と心の中でつぶやく。

こういうことが年に数回あった。
体調は徐々に良くなって、私の人生も時間とともに変化していったが、
怖さに慣れることはなかった。

主治医は私がひそかに「ドラえもん」とあだ名をつけていたくらい、丸みを帯びた体型をしていたが、それが会うたび増していった。

彼は、一度会社員になってから医者になる夢を叶えるべく医学部に入りなおした苦労人だと聞いたが、いつも笑顔だった。
激務だったと思うが、入院中は毎夜必ず私のベッドに顔を出してくれていた。

術後の痛みも、化学療法の辛さも、主治医の笑顔を見るとまあしょうがないか、とおもえた。

そして手術から8年経った日。
主治医が「もう、来なくていいですよ」と言った。
「何かあったらすぐ連絡してくださいね」

その笑顔を最後に、私は術後経過観察の検査を卒業した。

私のがんは混合型だったのと、腫瘍マーカーが上下することがあったこと、そして膀胱内の残尿がなかなか減らなかったことなどから長めだったようだが、がんの術後は定期的な検査を数年行うことが多い。

術後検査を終えてようやく、再発の恐怖から解放されたのだろうか。

残念ながら、すっきりとした解放感は今もない。
がんに罹る前の身体には戻ることはできない。
お腹の手術痕と後遺症が、20年経った今も私にがん治療の記憶を蘇らせる。

がんに罹って良かったとは思わない。
でも、あの病棟で、
生きるために入院仲間とともに戦い、
再発の恐怖を味わいつくした自分を、
今は誇らしく思っている。

11.後遺症とのおつきあい

手術、化学療法が終わり、定期的な検査に通う以外は日常に戻った。
ただ、手術前の自分ではなくなっていた。

私の場合は子宮頸がんで子宮と卵巣の摘出、骨盤内のリンパ節郭清手術を受けた影響で後遺症を2つ抱えることになった。

後遺症について一つずつお話ししてみたい。

1.更年期障害

ひとつ目は、卵巣を摘出したことで急激な更年期障害になったこと。

手術は45歳の時で、おりものが多くなったのも更年期のせいかな、と思っていたくらいなのだが、そろそろだなーと身構えていた症状が一気に来た感じだった。

まずやってきたのは「ホットフラッシュ」だ。
これは手術後の入院中に早々と来た。
私の場合は就寝中に多かったのだが、急に全身がカーっと熱くなり、汗が噴き出す。

初めて来たときは、急に熱が出たのかなと思うくらい身体中が熱かった。
そしてしばらくするとスーッと熱さが去って、汗まみれの身体が冷えてくる。
慌てて起き上がり、パジャマを着替える、の繰り返しだ。

このホットフラッシュは、突然おこる。
どんなときに起こるか予測できない。汗の量もその時によって違う。
しばらく来ないから油断していると、急に来て汗まみれになるので手ごわい。

不快と言えば不快な症状だが、私は自分の身体が急にホルモンバランスが崩れたおかげで右往左往しているように感じで面白いなとも感じた。

時間の経過とともに頻度は少なくなったが、今もたまに汗が噴き出して目覚めることがある。

また、指や腕がこわばるようになった。
これは抗がん剤の影響もあったので更年期障害とは言えないかもしれないが、指が動かしづらくなる。手をグーパーしていると少しずつ改善する。
手に持ったモノがスルっと落ちたりするので、しっかり持つよう意識するようにしている。

これも更年期症状かどうかわからないが、ある日気が付くと右腕が上がらなくなっていた。
四十肩の初期症状と言われる、寝返りが打てないほどの痛みは感じなかったが、ただ腕が上に上がらない。電車のつり革が持てないし、着替えもしづらい。

この症状は1年くらいで徐々に改善したが、指のこわばりの方は今も続いている。

あとは、気分の落ち込み、肥満も経験した。

朝、子供たちを学校に送り出した後、座ったら動けなくなり、気が付いたら夕方だったということもあった。
急に泣けてきたり、逆に感情が動かなくて、好きなアイドルがTVに出ていてもワクワクしなくなったりした。

正直、これらの症状が出ている時のことはあまり覚えていない。
どんなふうに過ごしていたのか、思い出せない。
人は、辛い思い出は忘れるようにできていると聞くので、そうとう辛かったのかもしれない。

今思うと、うつに近い状態だったのだろう。
でも、最低限の仕事や家事は出来ていたので重症ではなかったのだと思う。

胃腸は丈夫だったようで、動けなくても普通に食べられたのでどんどん太った。
更年期障害の影響で代謝が落ちていたこともあると思う。
でも、自分が太ったことにしばらく気づけなかった。

家族と出かけても、自分だけすぐ疲れてしまう。歩くと息切れする。
なんだかずっと調子が悪いなあとは思っていた。
ある日、子供たちと撮った写真を見て驚愕した。

だれ?この人。見たことのないでっぷり太った人は、私だった。

更年期障害はホルモン療法などで症状を軽減できる。
私も辛いので更年期障害の治療をしたいと主治医に訴えたが、
私のがんの種類(扁平上皮がん)はホルモン療法は禁忌とのことで、漢方薬だけが処方された。
残念ながら、この漢方薬では症状緩和が感じられなかった。

更年期症状はずっと酷いわけではない。
気持ちが晴れて楽しく笑える日もあったと思う。
ちょっと良くなって、また少し落ち込んで、という感じで
螺旋を描くように、薄皮を剥くようにすこーしずつ改善していく。

私は少し体調がよくなると、本を読んだ。
近くの図書館に予約を入れておくと週1~2冊順番がまわってくる。
図書館まで受け取りに行って、それを毎日読んだ。

最初はがんサバイバーの闘病記。
そして家事や料理の本。
片づけ、時間管理の本。
そしてダイエットの本。

どうにかしたい、と思っているテーマを片っ端から読んだ。
本から知識を得て、今の状況から抜け出したいとあがいていた。

その後、ビジネス書や起業系の本に興味が移って
またむさぼり読む日々が続いた。

ようやく外に出て仕事ができるようになったのは
手術から3~4年後だと思う。

友達に誘われて個別指導塾で中学生に勉強を教える仕事が最初。
その後、その友達と学習塾を開いたのは50歳になった年だ。

その頃には更年期症状に悩むことはほぼなくなっていた。

2.排泄障害

子宮頸がん手術で排泄の神経を損傷し、特に排尿の障害が大きく残った。

障害は具体的には次のようなことだ。

尿が溜まっていることがわからないので、膀胱がいっぱいになる時間を見計らってトイレに行く必要がある。

トイレに座っただけだと尿が出ないのでウォシュレットで尿道を刺激し腹圧をかける必要がある。

さらに、尿を出し切れたかどうかもわからないので、何度も腹圧をかけてなるべく残尿がないようにする努力も必要だ。

そして、膀胱周りの筋肉も弱っているのか、尿が出にくいのに漏れるという症状もある。

家でじっとしている時は、定期的にトイレでゆっくり排尿すればよかったが、外に出るようになって、尿漏れの対応が必要になった。

最初の尿漏れは、マンションの階段を下りた時だ。階段をおりる衝撃で尿が出てしまったのだ。
あっと思った時には履いていたジーンズも濡れるほど漏れてしまった。

また、くしゃみやつまずいた瞬間など、急にお腹に力が入るときも漏れる。

就寝前に水を飲みすぎたり、うっかりして残尿が多かったり、便秘ぎみだったりするとおねしょをすることもある。

これらの出来事は、とても切ない。情けない。
大人なのに、漏らすなんて。とトイレで悔し涙にくれたのは一度ではない。

でも、この障害は一生治らないと言われていたので、悔し涙にくれるだけでは前には進めない。

幸いなことに、この頃から尿漏れ対応商品が充実しつつあった。

特に尿漏れパッドは年々進化している。防水下着もいろいろ試した。
万一に備えて、ボトムスはグレーなどの淡色は避け、染みが目立たないものを履くようになった。
便秘も尿漏れに大きな影響があるので、腸を健康に保つよう食べ物やサプリを研究した。

女性専門の泌尿器科に受診もした。
尿漏れしないよう手術で処置をすることもできるとのことだったが、この手術によって尿を出しにくくなるのだそうだ。
なので、私のようにすでに出しにくい人にはお勧めできないと言われてしまった。

幸い、膀胱や腎臓には問題がなく(残尿が多いと悪さをすることがある)、今のところ様子見だ。
太ると膀胱にも圧がかかりやすくなるので体重を減らすようにとも言われた。

さらに60歳を過ぎて運動をするようになった。

今はピラティス、ゴルフ、筋トレをやっているがどれもお腹に力が入る。あっと思うことはたびたびだ。
運動の時は吸水量の多いパッドを使うなど、できる限りの対応をするが、それでも切ない瞬間はゼロではない。

日々研究あるのみ、である。

障害が無かった過去に戻ることはできない。
私も長い間、その理不尽さに怒ったり、悲しんだりした。

でも、障害があっても私が私であることには変わりがない。
また、人はずっと同じ状態でいることは不可能なのも真実なのだ。

これを読んでいる方は、更年期障害も尿漏れもピンとこない人もいるだろう。

しかし、だ。
この2つとも女性の方ならこの先悩むかもしれないことだ。
がんに罹っていないあなたも、私と同じ思いをする日がやってくるかもしれない。

人は老いる。体は弱る。
その過程で、今まで出来ていたことができなくなったり、不調が続くことが誰にでも訪れるのだ。

少しだけ早くこれらの障害が私のスペックに加わったというだけのことだ。
切なく思うできごとのたびに、そう思うようにした。

そうして、私はすこしだけ軽やかに生きられるようになった。

12.子供たちのこと

私の家族はお見合い結婚した3歳年上の夫、32歳の時に生まれた長男、36歳で出産した長女の4人だ。

車で30分程度のところに私の実家があり、私ががんになった当時70代の父と母、そして私と4歳違いの妹が住んでいた。

がんと診断されて、まず夫に事実を伝えた。
そして実家の両親に電話で伝えた。
驚いてはいたが、治療のための協力を頼むと快く引き受けてくれたと思う。

その時、長男が中学1年生、長女は小学3年生だった。

2人に次のように伝えた。
「ママね、検査したら病気が見つかったの。これから入院して手術することになったの。しばらく2人に協力してもらったり我慢してもらうことがあると思う。
でも、ちゃんと病院で治してもらって帰ってくるから、心配しないで。大丈夫だよ。」

ここで私が幼い頃のことを少し聞いてほしい。
両親はよく喧嘩をしていた。喧嘩は父が酔って帰ってきた夜だ。父の怒声や母の泣き声が聞こえてくると、幼い私は布団の中で耳を塞いで喧嘩が収まるのを待つ。

さらに喧嘩がヒートアップすると、父が母に出ていけと言い、母は本当に出て行ってしまう。
夜遅く、母が玄関を出ていく音がする。

実は同じ市内に母の親戚筋の家があり、母はそこに行っていたのだ。
そんな事情を知ったのはずいぶん後のことだ。

親戚が仲直りを促したのか、父が迎えに行ったのかわからないが、次の日に母は帰ってくるのだが、その時の私はただただ、お母さんが家からいなくなる、ということが恐ろしくてならなかったのだと思う。

未だにその時の記憶が残っていること、母が突然家からいなくなる夢を何度も繰り返し見たことから考えても、幼い私にとっては相当ショックな出来事だったのは明らかだ。

がんになって、自分の子供たちにあの頃の私と同じ思いをさせることだけは避けたかった。
「がん」という病名を告げるのも憚られた。以前、娘の友達が「がんになったら死んじゃうのよね」と話していたのを思い出したからだ。

長男と長女はあの頃の私よりかなり成長しているが、子供は子供だ。
考えに考えて話したのが先に書いたことばだった。

「ごはんやお弁当、習い事の送り迎えはパパやおばあちゃんたちによく頼んでおくね」
など、できるだけ2人が不安に思わないように伝えたと思う。

こどもたちは少し緊張した面持ちで「わかった」と言った。

私は一所懸命伝えようとしたと思う。
「大丈夫、必ず帰ってくるからね。」
幼かった私が、母から聞きたいと思っていた言葉だ。

診断から入院までの1週間で、彼らの生活が回るよう、家事を中心に段取りをした。

困ったときに連絡できるよう、同じマンションの友達ママの電話番号を家の電話に登録し、お隣に鍵のスペアを預かってもらった。

時々見舞いにきてくれる夫に子供たちの様子を聞くと、いつも通り過ごしているとのこと。
病気にもならずに頑張ってくれている。ホッとすると同時に私も頑張らなければ、と励まされていた。

そして私は約束通り、退院して帰ってきた。
後遺症を抱え元通りの私ではなかったが。

化学療法の前には「これから、ママは髪の毛が抜けちゃうと思うけど、治療が終わったらちゃんと生えてくるから、心配しないでね」と話した。

退院後、後遺症とともに体調がイマイチの数年を過ごしたが、不思議と子供たちの用事はこなすことができた。

娘は幼稚園からバレエを習っていて、トウシューズを履く時期で毎日のようにレッスンに通っていた。その送り迎えや発表会の準備、発表会当日の受付などをウィッグをかぶってやっていた。

手術の翌年、4年生になって娘はバレエをやめて中学受験のための塾に入った。
学校から帰宅すると軽食を食べ、隣駅の塾に行く。帰りは遅くなるため私が迎えに行っていた。
帰れば食事と学校と塾の宿題につきあった。

そして秋には受験の可能性がある中学の文化祭巡り。抗がん剤の影響で足が重かったが、娘を連れて5~6校回ったと思う。

息子の中学は電車を乗り継ぎ片道1時間40分ほどかかるところにある。
学期に1回保護者会があるのだが、それにも休まず出席した。
息子はバスケットボール部に入っていて試合の見学にも行った。

子供たちの用事となると、他のお母さんと同じようにやりたい!と強い意志があったように思う。それをやり切ることができて良かったとしみじみ思う。

さて、この文章を書くにあたって、息子と娘に、私ががんになった当時のことを聞いてみた。

まず息子。今年32歳。東海地方でお嫁さんと1歳の娘と暮らしている。

――ママが病気で入院すると聞いてどう思った?
うーん、よく覚えていないけど、あ、そうなんだ、と思ったかな。

――ママががんになった後、何か変わったことはある?
うーん、特にないかな。

・・・とのこと。拍子抜けである。

そして娘に同じ質問。今年28歳、会社員で念願の一人暮らし満喫中。

――ママが病気で入院すると聞いてどう思った?
ああ、今までの私でいてはダメなんだと思った。当時小3の自分にはよく理解できていなかったと思うけど、これからは泣いたりして迷惑をかけてはいけないんだなと感じたと思う。

――ママががんになった後、何か変わったことはある?
はっきり覚えているけど、私のキャラが変わった。もうあんまりわがまま言ったりできないなって思った。無邪気な自分からちょっと引いた性格になったと思う。友達にもママのことや自分のことをあんまり話さなくなった。

あと、嫌だったのは友達と友達ママと一緒にママのお見舞いに行ったこと。
私、どういう態度でいればいいのかわからなかった。お見舞いに行くなら一人でママに会いたかったな。

でも、そのあとママはいつも通りにしていたので、あまり心配はしなかったよ。

とても対照的である。

娘は、手術するまでは私とお風呂に入っていたが、退院後は一緒に入ろうと誘っても、入ってくれなくなった。
お腹の傷を見たくないのかな、と思っていたけれど、彼女なりに遠慮していたのかもしれない。

今はそのことは覚えていないようだが、あの頃に戻って娘を思いっきり抱きしめてあげたい。

私が病気になったことが子供たちになんの影響もなかったとは言えない。
特に娘はキャラ変のきっかけになったようなので、申し訳ない気持ちになる。

ただ、私の病気がきっかけで家族の結束が強まったなどという感動的なこともなかったように思う。

私の入院中は夫と子供たちは協力して家事を回していたようだが、私が帰ってくると当然のように元の日常にもどる。私は抗がん剤治療を終え退院した日にトンカツを揚げていた。私自身は吐き気で食べられなかったが、家族はおいしそうに食べていた。

これは決して残念なことではなく、私のがん罹患という出来事があっても家族の日常は大きくは変化しなかったということでもあるのだ。

あれから20年、幸せなことに今の子供たち2人は紆余曲折はあったけれど社会人になり、それぞれの環境で頑張っているし、毎日をエンジョイしているように思う。
年に数回帰ってきて寛いでいるし、誕生日ディナーや旅行に誘えばつきあってくれる。

がんは、私の家族に多少の影響はあれど大きな傷を残すことはなかったと思う。

その点において、私はがんという病気に勝ったと言っていいと思っている。

13.ママ友のこと

私の住まいは東京郊外の大規模マンション。
長男が小1になる直前に引越してきたので、がんの診断は住み始めて7年目のことだった。

当時は長男、4歳違いの長女の子育てを通して同じマンションや近所の女性たちと親しくしてもらっていた。

長男・長女とも地元の公立小学校に通っていた。保護者会で隣に座った人、一緒にPTA役員をやった人、子供の習い事が一緒の人…。子育てをしていると子供を介してたくさん出会いがあると今も思う。

そんな出会いの中で、波長が合って子供とは関係なく仲が良くなった人が何人かいた。

Mさんは男の子のお母さん。保護者会で隣になったとき、関西出身と聞き「もしかして阪神タイガースのファンですか?」と聞いてみたら「もちろん!」と嬉しいお返事。
その後一緒にTVで応援したり、球場に子連れで観戦に行くようになった。

Iさんは男子ママ、Oさんは女子ママで、どちらも同じマンションに住む娘の同級生ママ。
この2人と前述のMさん、私の4人で定期的に誰かの家に集まっておしゃべりするようになった。夏はマンションの窓から花火を見ながらビールで乾杯。子供たちも男女で分かれることなく4人で遊んでいた。

がんで入院することになり、私はこのママ友たちに事実を伝えた。
それぞれができることはするので何でも言って、と言ってくれた。

特に小学3年生の娘のことは3人に全面的にお願いしていた。
下校してから中1のお兄ちゃんが帰ってくるまでの間、娘を預かってもらったり、習い事に行く時間を伝えてもらっていた。
Oさん宅には何度かお泊りもさせてもらったようだ。

Oさんは親子でアイドルグループ嵐のファンで、録画していた嵐の番組を娘にたくさん見せてくれたようで、私が退院してきたら娘はすっかり嵐ファンになっていた。

私も娘に引き込まれて嵐ファンになり、後に親子でライブに行くようになった。
がんになったことで、一時期娘との会話によそよそしさを感じたこともあったが、嵐のおかげで仲良しに戻れた気がしている。

最初の退院の時には3人が退院祝いとして黒いセクシーなTバックのショーツをプレゼントしてくれた。「下半身の浮腫みにちょうどいいと思う!」というひとことが添えられていた。

その後も後遺症で引きこもっている私をランチやショッピングなどに誘ってくれた。彼女たちと一緒にいるときは、軽い冗談でお腹を抱えて笑うことができた。

50歳直前になってようやく体調が戻ってきたとき、Iさんが個別指導塾の仕事を紹介してくれ、その後2人でフランチャイズの学習塾を経営することになった。

私が起業することになり学習塾は3年で閉じることになったが、その後もIさんは公立中学で働く傍ら、私の新しい仕事を手伝ってくれた。

Oさんは私が53歳で立ち上げた事業をスタッフとして手伝ってくれている。
最初は友達に仕事を頼むのは気が引けたが、私のためなら、と言って力を貸し続けてくれている。

Mさんは幼稚園教諭の資格を持っていたため、私の事業で小さいお子さん連れのママたち対象のセミナーを開催するときには、赤ちゃんや未就園児を預かる手伝いをしてくれた。彼女はいつもニコニコしていて、新しい仕事に挑む私を励ましてくれた。

しばらくして Mさんは隣の市に引っ越したが、その後も定期的にみんなで飲み会やランチ会をしていた。
彼女と私の2人は阪神タイガースの応援に何度も一緒に行った。

そんなMさんから「ガーン」というタイトルのメールが来たのは、下の子たちが大学生の時だ。
脳腫瘍(脳のがん)が見つかったことを知らせてきたのだ。

口元がもつれて言葉が出にくくなったので検査をしたら、進行が早く完治が難しい種類のがんが見つかったとのことだった。

ショックだったが、私はすぐにこう思った。
今度は、私が彼女を支える番だ。

ご主人は出張や単身赴任が多い仕事で、お子さんは娘と同級生の男の子と、上に社会人のお兄さんの男ばかりの家族である。ご実家は関西で新幹線の駅からさらに時間がかかる場所と聞いていた。
不安だろうし、いろいろ不便なことも多いだろう。

「私、なんでもやるよ。今から行っていい?」とメールを返した。
少しして「ありがとう。でも来なくて大丈夫。入院することになったらお見舞いに来てくれたら嬉しい」と返事がきた。

彼女はいつも家をきれいにしていた。いつ行っても、だ。
キッチンに立って美味しいおやつやおつまみをチャチャっとつくってくれる主婦の鑑のような人だ。
人が来ることになったら必死で片づけて掃除する私と対極の人だった。

そんな彼女だからこそ、自分が体調を崩して寝込んでいる家に友達をあげるのは抵抗があったのかもしれないと思った。
Mさん、そんなこと全然気にしなくていいのに。辛い時は頼ってよ。
私、Mさんがいてくれたから頑張れたんだよ。だからこんどは私にその役割をやらせてほしい。

そう言いたかった。でもそれを言うのは私のエゴでもあるのかもしれないと感じた。

これから彼女がたどる道に、私が無理に寄り添わせてもらうことは、私のわがままでしかない気がしたのだ。

かなり深刻な状況を突き付けられて、彼女はどんな気持ちでいるのだろう。
そして、これからの時間をどう過ごしたいと思っているのだろう。

どうか、彼女が少しでも長く穏やかに過ごしてくれますように。
私は、そう祈ることしかできなかった。

しばらくして、入院して手術が終わったとの連絡がきた。
日本で最高峰と言われる病院に彼女は入院していた。

面会に行くと、頭に包帯を巻いた彼女がいつもと同じニコニコ顔で車いすに座っていた。
取れるところだけ取ってもらったの、という彼女の車いすを押していたのは社会人の長男くん。
聞けば、休職してお母さんに付き添っているのだそうだ。

入院する前に、家族旅行に行ったのよとお土産を手渡してくれた。
娘の同級生の次男くんも大学の授業を終えて駆けつけてきた。
お母さんの顔をなでて、今日は顔色良いね、とほほ笑んでいる。

その親子の姿は、愛に包まれて光を放っているように見えた。

彼女は残りの時間をできうる限り愛する家族と過ごすことを選択したのだな。
手伝いに行きたい私を優しく拒絶した彼女の思いがわかった気がした。

私はその後もママ友と一緒に何度かお見舞いに行かせてもらっていたが、長男くんから緩和ケア病院に移ることになった、と連絡がきた。

そこは彼女が家族と暮らしていた家に近い、小さいが美しい病院だった。
長男くんは彼女の隣の簡易ベッドに寝泊まりしているという。

面会に行くとニコニコおしゃべりしたり一緒におやつを食べていた彼女も、だんだんウトウト眠っている時間が増えていった。私たちが声をかけると一瞬目を開けてこちらを見るが、すぐに目を閉じてしまう。

寝顔は相変わらずきれいで、ほほ笑んでいるように見えた。

ほどなくして、長男くんから電話があった。
彼女は家族に囲まれて、天に旅立ってしまった。
彼は泣きながら母のお通夜の受付をやってほしい、と言ってくれた。
IさんとOさんにも同様の電話があったという。

ありがとう、最後に私たちに少しだけ役割を与えてくれたんだね。
本当に優しいね、Mさん。

受付の準備のため少し早い時間に会場につくと、彼女の夫が近づいて挨拶してくれた。

彼女は自分の死期を理解した後、お通夜と告別式のあれこれを家族に指示したという。
遺影の写真、花の色。そしてお棺に入った自分の口紅の色まで。
男しかいないからわからないでしょとニコニコして言っていたと、目を真っ赤にして話してくれた。

お通夜には会場に入りきらないほどの人が参列した。
彼女の心遣いが詰まったあたたかい式だった。

告別式は家族と親族だけで行ってほしいという彼女の要望だったそうだ。

Mさん、みんなあなたのことが大好きだったよ。
見事な人生の幕引きをやってのけたね。
本当にすごいよ。

それから、彼女の命日の前後には毎年ママ友とお墓参りに行かせてもらっている。
花にあふれた墓苑で、お墓にも彼女らしい花の彫刻がある。

阪神タイガースが日本一になった年には、縦じまユニフォームを着た小さなマスコットを供えさせてもらった。

Mさん、やっと優勝したよ!
勝てない時もずっと応援していたんだもの、今はお空で大満足だね、とつぶやいた。

私は、あのがんで死ぬことになっても、
Mさんのようにはできなかったと思う。
だから、私は今生きているのかな。
もっと修行しなさいってことかな。

彼女は完ぺきだから神様が連れて行ったとしたら、それはさすがに酷いよ、神さま。

14.仕事のこと

がんの診断を受けた45歳当時、私は以前働いていた会社からの仕事を業務委託の形で受注、在宅で仕事をしていた。いわゆるフリーランスという立場になって8年目だった。

この働き方はがんの治療にとって良い面も良くなかったかもしれない面もあったと思う。

良くなかったかもしれない、というのは、フリーランスは保障や有休がないということ。
入院中は働けないので収入はゼロになる。
疾病手当や有休など、雇用者なら受けられる制度がほとんどない。

それでも在宅で作業し、連絡や納品はメールでという働き方は、入院治療をする際にはとても助かったと思っている。

そのあたりをお話してみたい。

仕事内容は会社のWEBページのエラーチェックおよびメンテナンス、新製品ページの制作などだ。
当初は私ひとりで行っていたが、時代の流れとともに会社のWEBページの更新量が飛躍的に増えていき、ひとりでは到底こなしきれなくなっていた。

依頼元に連絡すると、「東さんが人を連れてきて何人かでやればいいんじゃない?会社のサーバーにアクセスするから元社員が望ましいけど」と言われた。

在職中、社内の事業部を縦断したプロジェクトに参加していたおかげで、同年代の女性社員の知り合いは多くいた。当時は出産を機に退職する人がまだまだ多く、開発・研究部門の理系の女性を中心に何人かに連絡してみた。

全員がWEBページに関してはやったことがない。
それでも、在宅で仕事ができるならありがたい、と参加してもらえる人が少しずつ増えていく。
私が自分なりに習得した作業に必要な知識や作業方法を電話でひとりひとり教えていった。

業務量はさらに増え、最終的には8名の元社員の女性でチームを作って仕事をするようになった。
WEBページについても、次々と新しい技術が導入されていく。
お互いに教えあい、分担し日々の業務にあたっていた。

がんの治療で入院するとき、仕事仲間にはメールで事実を伝えた。

この仕事は私一人で始めて、仕事量が増える毎にメンバーを増やし、ひとりひとりにOJTを行ってチームを作って仕事をしていた。全員在宅で仕事をしているため、信頼関係を作ることを第一に考えていたし、メンバーは信頼に値する優秀な人ばかりだった。
メンバーの業務スキルは私を追い越していたので、がんの診断を受けた当時のは私は管理的な仕事のみを行っていた。

「がん」という病名についてどういうイメージを持っているのかは、人によって違うと思う。なかにはがんに罹ったことを職場や周囲に伝えることを躊躇する人もいるだろう。

仕事の場では私はその時判明していた範囲の事実を伝え、治療後の見通し、そして協力してほしいことを淡々と伝えることを心がけた。受け止め方は相手の問題だと思った。

私のそのような態度が幸いしたのか、仕事仲間は淡々と受け止めてくれたように感じた。

1か月弱の入院期間中は私が担当していた業務をメンバーで分担してもらうことになった。
委託元の会社の担当者にもメールで不在中も問題なく作業が遂行できることを説明しておいた。

最初の手術入院で退院が近づいたころ、在宅ワークチームのみんなが病院にお見舞いに来てくれた。
全員が子育て中のお母さんメンバーで病院まではかなり時間がかかる遠方に住んでいる人ばかりだ。子供を預けるなど都合をつけてはるばる来てくれたのである。

病棟内を歩き回る私を見て、「思ったより元気で安心した」と言ってくれた。
やはり心配をかけていたんだな。仕事仲間ってありがたいな、と嬉しく思ったのを覚えている。

この後、化学療法のために1か月ごとに1週間入院したが、その時も仕事は滞ることはなかった。

このように、業務委託、在宅ワークという働き方とチームで仕事をしていたおかげで、がんに罹っても仕事を続けることができた。

だが、体調が回復してきて、今後もこの仕事を続けたいのか?と自分に問うてみた。
答えはNOだった。

当時、在宅ワークは自由度は高い半面、会社にいないので情報が圧倒的に少なかった。
仕様の変更があっても、その理由や背景は知らされなかった。

たとえ小さな作業でも、この仕事が会社の方針や事業計画の中でどんな意図で行われるのか、納品したものがどう評価され、次につながるのか。
依頼された仕事をより良い内容にするための情報がない。

また、いくらスキルが上がっても、依頼内容以上の品質で納品できても、評価されることはほとんどなく、報酬単価は10年以上値上げされることはなかった。

主婦の内職と思われていると感じる出来事があり、悔しい思いもした。

もっと自分がコミットできる仕事がしたい。
できれば自分で仕事を創ってみたい。

図書館通いでビジネス書や起業関連の本を読み、
私はそんな思いを強くしていった。

紆余曲折を経て、がんに罹ってから8年後、53歳で女性の働き方を支援する事業を立ち上げた。
それから12年目になる。

仕事への思いや起業の顛末は、今後じっくり書いてみたいと思っている。

私が講座やセミナーをやらせてもらうとき、自己紹介で必ず話すことがある。
「がんに罹ったことで、これからの人生や働き方について本気で考えるようになりました」
「これまでの人生、いろいろありましたが、これだけははっきり言えます。私は今が一番幸せです」

失敗はたくさんあったし、うまくいくことの方が少なかったけれど、
悔いは全くない。

自分で舵が取れる働き方。
自分の人生を自分でコントロールできる生き方。

がん病棟で出会った闘病仲間に報告するとしたら、
そんな生き方を手に入れるためにこれまで頑張ってきたよ、と言うと思う。

15.私におこった変化

ここまで、45歳で子宮頸がんの診断を受けてから私の身に起こったことをお話してきた。

がんに罹る前とくらべて、私はいろいろ変化したと思う。
がんという病気やその治療の影響による変化はもちろん、その経験を通して生き方にも変化があった。

1.身体の変化
これまでお話してきたとおり、治療の影響で身体に変化が起こった。

・手術痕
私の場合、広汎子宮全摘出術を受けたためおへその上から下腹部にかけて縦方向のケロイド状の傷が残った。

しばらくピンク色で結構目立っていたが、時間の経過とともに赤みはなくなった。
しかし、いまだにけっこう目立つ。手術痕は担当医の技術によって目立たない場合もあると聞くので、私の主治医の縫合技術はイマイチだったのかもしれない。

お腹なのでビキニ水着を着ない限りは人目に付くことはない。また、温泉などでも他人のお腹をまじまじと見る人もいないと思うので、特に困ることはない。
痒みもなく、ふだんはお腹の傷を忘れているくらいだ。整体やエステなどでお腹を出す機会の時は手術痕があることをあらかじめ話しておく。そのことについて嫌な思いをしたことはない。

・脱毛
半年の化学療法で、頭髪はほぼ抜け落ちたが、つるつる頭になったわけではなかった。ところどころに少しずつ残って「落ち武者」みたいな頭になった。

いつもウィッグやニット帽、バンダナなどを巻いて過ごした。暑い日で一人の時は何もかぶらずに過ごすこともあったが、子供たちが帰ってくる時間はウィッグをかぶるようにしていた。

身体中の毛髪が落ちてしまう人もいるが、私は頭髪以外はほぼ抜けなかった。
眉毛やまつ毛もそのままだった。点滴薬の種類によるのか体質によるのかは良くわからない。
まつ毛が落ちてしまうと、光が眩しいし目にゴミが入りやすいので外出時はサングラスが必要という話を聞いた。

化学療法が終わって1~2か月で少しずつ頭髪が生えてきた。
赤ちゃんの毛のようなホワホワした毛が生えると思っていたら、けっこう太いしっかりした毛髪だった。しかもうねっている。

私はもともとは直毛だったのだが、天然パーマのベリーショートの髪形になってきた。
それが結構いいな、と思ったので、その髪型で友達とランチに行ったりしていた。
このまま延ばしたらどんな髪型になるのか、ちょっと楽しみでもあった。

ところが、化学療法を受ける前に相談した美容院に行くと、薬の影響で最初はうねっているだけで、しかも毛先が痛んでいるのでカットした方がよいと言われた。
せっかく新しい髪型を楽しんでいたのにと、ちょっと残念だったがカットすることにした。

それから伸びてきた髪は元の自分の髪だった。ほどなくして手術前の髪型に戻ることができた。

・下肢の浮腫
私のようにある程度子宮がんの進行があると、リンパへの転移の懸念があるので広汎子宮全摘出術になる。これは子宮・卵巣の他、骨盤内のリンパ節を切除する。
この影響で「リンパ浮腫」になる可能性が高くなる。

主に脚のリンパの流れが悪くなり、脚に浮腫みがでる。
術後は脚に「弾性ストッキング」と呼ばれる浮腫対策のきつい長靴下を履かされる。
最初は看護師さんが履かせてくれるけれど、歩けるようになれば自分で着脱するのだが、これが一苦労。退院後もお風呂の前後にこのストッキングと格闘した。

それでも脚に浮腫みがでた。私の場合は左脚の方がひどく、常にだるさがあった。
自分の足を見下ろすと、左だけ象の足のように太い。
さわるとブヨブヨしている。

悪化すると治りにくくなると言われ、毎晩頑張ってマッサージをした。5~10分ほどだったが、汗だくになったのを覚えている。
そのおかげで、1年ほどでひどい浮腫みは出なくなった。

・更年期障害
両方の卵巣を切除したので、術後急激な更年期障害になった。
一通りの症状を経験した。化学療法もしていたので、体調の悪さは更年期障害なのか、抗がん剤の影響なのかわからないで過ごしていたと思う。
ホットフラッシュ、手先のしびれなどは今も時々起こる。

私のがんはホルモン療法ができない種類だったので、ただただ症状が治まるのを待つのみなのが、けっこう辛かった。
手術前は規則的に来ていた生理が手術後は皆無になる。PMSや生理痛が重い方だったので、それが無くなったのは唯一良かったことかもしれない。

子宮や卵巣を切除したら女性ではなくなるのかなと思ったことがあったが、それはまったくの間違いだった。女性は子宮で考えると言っている人がいるが、当然そんなこともない。

・排泄障害
これがいちばん辛い変化だった。
術後20年経っても、切ない気持ちになる出来事は起こる。

手術前には意識もせずに当たり前にできていた「排泄」がふつうに出来なくなったことになかなか慣れることができない。

それでも、いろいろなツールを使い、ある程度コントロールできるようになってくる。
外出や旅行なども事前にしっかり準備しておくことで楽しむことができる。
腸や膀胱を健康に保つことはもちろん、体重増加も排泄に悪影響があるのでコントロールが求められる。

この障害を持ったことで、自分の身体を良い状態に保つことに積極的になったと思う。
下着やサプリ、運動などにお金や時間を費やすことに躊躇しなくなったのもこの障害の影響だと思っている。

2.生き方の変化
すこし大げさかもしれないが、がんの影響で気持ちの変化が起こり、その結果自分の生き方が変化したと思っている。

私はがんに罹るまで大きな病気をしたことがなかった。
運動は得意ではなかったが、会社で働き、結婚して子供を産み育てるくらいの体力があり、健康だったと思う。

日々の活動ができること、そのことについて特に何とも思っていなかった。
健康が当たり前で、それが損なわれるのはもっと先の、老いてからのことだろうとなんとなく思っていた。

がんになって入院し、死を間近に感じることが多い環境にいて、死を迎えるかどうかは、因果応報とは全く別のものだということを感じた。

悪い人だから病気になるわけでは決してない。むしろ、良い人から神さまが連れて行ってしまうように感じることが多かった。

健康に生きること。
病気になること。
治療の甲斐なく死を迎えること。

そのことと人としての価値は関係がない。
そんな風に感じるようになった。

たまたま、健康でいるだけ。
たまたま、病気になっただけ。
それは、私という人間の価値を左右するものではない。

それを知る前と後では、私の生き方に大きな変化があった。

人はいつか、必ず死ぬ。
それが遠い将来なのか近い将来なのかは選ぶことができない。
たまたま、の世界は自分にはコントロールできない。

それならば、自分でコントロールできる部分は最善だと思える選択をしていこう。
そう考えるようになった。

がんになって、
「このまま死ぬことになっても後悔がないか?」
と自分に問うてみたことがある。
「いや、このまま死ぬのはいやだ」と思った。

子供がまだ小さいから。
母の私がいなくなったらかわいそうだし、
彼らを育ててどんな大人になるか見てみたい。
その気持ちももちろんあったけれど、
それよりも強く感じたことがある。

これまでの自分の生き方に
私は満足していない!

私は長女として生まれ、昭和ひとケタの両親に
おねえちゃんだから、女だからこうするべきと言われて育ち、
自分もそうするべきだと思い込んでいたけれど、
それは本当に自分の本心なのか?

本当はもっと社会で活動してみたい、
さらに、女だからって我慢していたこと、
おかしいなと思うけれどしょうがないかと蓋をしていたこと、
自分を後回しにしてきたこと、
これらにもう一度向き合ってみたい…
そんな思いが湧いてきた。

そのために何としても回復して
今度こそ自分で満足できる人生を生きたい。
そう強く思った。

わーなんて自己中心的。
自分のことが大事なヒトなのね。

そんな風に感じる人がいるかもしれない。

わたしだって、以前はそう思ったに違いない。
あるセミナーで、まず自分を満たして幸せにならないと周りの人を幸せにできませんよ、
という話を聞いたことがあるのだが、
実際大人になったらそうはいかないよね、と
懐疑的に聞いていたのだ。

でも、がんになって死ぬかもしれない、という
状況に置かれてみたら、
自分のことを考えるので精いっぱいになるのだ。

そして私の場合、そういう状況になって
初めて自分の人生ときちんと向き合う気に
なったのだった。

今までだっていい加減に生きてきたわけではないと思う。
けっこう真面目に頑張ってきた。
でも、いつでも自分のことは後回しにする癖があること、それをやめたいと望んでいたことに初めて気が付いた。

だからといって
皆さんにがんになってみたら、と
勧める気はまったくない。

がんになんて、かからない方がいいに決まってる。

いろいろあったものの、
ラッキーなことに
私は退院できた。

さあ、これからは自分を満たすために、
自分を幸せにするために生きるぞ!と
意気込んではいたものの、
その日から変われたわけではないのだった。

3.自分と向き合うために
まずは、体力の回復、更年期障害や排泄障害の対応。
生き方を変える前に、自分の身体と向き合う必要があった。

病院にいるときは、医師や看護師さんが
薬の処方や世話をしてくれる。
それに乗っかっていればいい。

退院したら、誰も指導してくれない。
自分の身体やメンタルの状況を把握し
情報を集め、試行錯誤しながら
がんの罹患によって変化したこの身体で生きていく。

術前と比べて体力は信じられないほど低下していた。
排泄障害のため、トイレ時間が長く必要だし
浮腫や脱毛のケアも必要だ。

けれど仕事や家事は減っていない。
夫や母のサポートも退院したとたんに撤退されていた。
低下した体力で毎日回していくことが先決だった。

気力や体力が落ち込んでどうにも動けない日も
もちろんあった。
ひとりで暗くなるまでじっとしていたが、
子供が帰ってくればご飯を作る必要がある。
何とか起き上がってキッチンに立つ。
家族がいて良かったのはそういうところもあるのかもしれない。

だんだん生活に慣れてくると
時間の余裕ができるようになった。
友達に連れ出してもらってランチに行くなど
外出もしたが、基本は家にいる。

私は近所の図書館のサイトで本を予約して
読書をするようになった。

最初は健康に関する本が多かったが
だんだんビジネス書や時間管理の本を好んで読むようになった。

特に自分で仕事を作った女性の本はワクワクして読んだ。
さまざまな困難を乗り越え、信念をもって起業した人たちだ。
そして、そんな女性のセミナーに出かけていくようになっていった。

女性でも男性でも、子育てしていても、病気になっても
望めば社会で活動していける世の中になったらどんなにいいか。
そんな世の中を作るために、小さくても力になれる自分になりたい。

私がこれからやりたいことは、これなんだ。
そう思うようになった。

4.行動したら、動き出した
では、どうしたらそんな自分になれるのか。
この時の私には皆目わからなかった。

本を読んでいるだけでは何も変わらない。
そう思って次にやったことは、人に会いに行くことだった。

誰かに雇われるのではなく、自分で仕事を作っている人はどうしているのだろう。

セミナーや勉強会に行って、隣の人に話しかけてみたり、
講師の人に話を聞きたいとアポイントをお願いした。

また、お客さんとしてサービスを受けてみる、
地元の商店会のお祭りを手伝ってみる。
セミナーの事務局をやらせてもらって、セミナーの作り方を見せてもらう。
そんなことを繰り返した。

本を読んでいた時には分からなかったことが
人と会って話したり、実際にどう動いているのかを見せてもらうことで
いろいろなことが見えてくる。

行動をすることで、
私の起業の形がだんだんはっきりしてきた。

結論から言うと、私は53歳の時、自分の思いを事業にするべく起業した。
抗がん剤の治療が終わってから7年の時が過ぎていた。

起業までの道程や起業後の話はまた別の機会にさせていただければと思うが、起業までの道は順調ではなかったし、最後まで自分が起業できると思っていなかった。
けれど、この7年はとても楽しかったことだけはここでお伝えしたい。

行きたいお店やセミナーにすぐ行ってしまう私を送り出してくれる家族。
子供に毎日出かけていてごめんね、というと、なんだか楽しそうだからその方がいいじゃん、と言ってくれたね。

そして、話を聞いてくれ、惜しみなくアドバイスしてくれた先輩起業家のみなさん。
いろいろな場面で私に力を貸してくれた友人たち。

そういう私の周りのすべての人たちに支えてもらい、私は本当に毎日楽しく生きている。

起業した年から、毎年地元の公民館主催の女性向け講座に呼ばれてお話をさせてもらっている。
その時、自己紹介代わりに起業までの人生をお話するのだが、病気のこともお話する。
そして必ずお伝えすることが2つある。

ひとつは、毎年健診を受けてください、ということ。
がんは早く見つかれば早く治る病気になった。
そして、もうひとつ。病気を通して、私は自分の人生と向き合うことができ、そして起業することができました。私は今が一番幸せです、と。

16.20年目の私

「5年生存率」という言葉があるように、治療終了後5年が節目になり、腫瘍マーカーや細胞診の検査を卒業することが多い。

医療の発達などにより、5年生存率は年々向上しているという。
がんになっても、その後も生きられる人が増えているのだ。

ただ、5年を無事過ぎたらもう再発はしない、という保証はない。確率が下がるだけのことだ。
実際、私の高校の同級生は乳がんの治療5年経過後に再発した。
再発すると、生存率は格段に下がる。

ラッキーなことに、私は20年後の今も元気に生きている。
後遺症はあいかわらず私と共にあるけれど。

がんに罹る前と後では、死の捉え方が変わり、同時に生き方が変わったと思う。

生きていれば、いろいろなことが起こる。
仕事でもプライベートでも悔しいこと、悲しいこと、怒りに震えることが起こる。
がんに罹ったかどうかは関係なく、人生はいろいろな試練を連れてくる。

それでも、がんに罹ってからは一度も「死んだ方がマシだ」と思ったことはない。
何があっても生きている方がいいに決まっている、とがんを通して私は深く知ったからだ。

怒りや悲しみも、時間とともに癒える。
思いもしなかった喜びや、心が震える瞬間も人生にはあるのだ。それは生きているからこそ感じられるものだ。

身内が「死にたい」と言ってきたことがあるのだが、私は全力で怒りまくった。

「生きたくても生きられなかった人を何人も見てきた。あなたは今、生きているじゃないか。死ぬ方がいいなんてありえない。私はそれを知っている。生きていればいつか辛いことも消えていくかもしれないけれど、死んだらそれで終わりだ。だから死にたいなんて言うことは許さない」

私の剣幕にその身内は「わかった」と言って、それ以来「死にたい」と口にすることはなかった。

せっかく生きているんだから、やりたいことをやって楽しまなくちゃ。
そのためだったら頑張れる。
そう思って私は生きている。

起業してからは何度も失敗や結構な危機を経験したけれど、命までは取られないよね、と思って頑張ったらなんとか乗り越えてこられた。

自分のことを後回しにする癖はまだ残っているのだけれど、自分で選んで行動することには多少自信がついた。

子供たちは独立して家を出ていった。
要介護5で施設にいる実母のあれこれ、そして夫との生活が残っているけれど、自由にできる時間は格段に増えている。ご褒美のような日々だ。

これからどうやって過ごそうかと考えていたとき、私の話を聞きたいと言ってくれた人たちがいた。
私ががんに罹った年齢に近い方々だった。
意外に思うと同時にとても嬉しかったのだ。

私の経験が誰かの役にたつかもしれない。そう思うと、これまでの経験すべてが意味あるものに変わり、今まで生きてきて本当に良かったと思えた。

それから私は、自分のこれまでを文章にすることに取り組み始めた。

がんに罹ったことは私にとっては人生の大きな出来事だった。
がんがきっかけで私は自分の生き方と向き合い、時間はかかったが生き方を変えてきた。

そんな私からこれを読んでくれているあなたに伝えたいことがある。

あなたも私も、生きているだけでとてつもなくラッキーなんだ。
そして自分の人生を自分で決めて行動することでいくらでも変わっていけるんだ。

そして、人はひとりで生きているわけではない。
意識することはなくても、いつも誰かの力を借りて生きているし、そこにいるだけで誰かの力にもなっているのだ。

力を貸してほしい、手伝ってほしい、助けてほしい…。
困ったときはそう声をあげれば、きっと誰かが寄り添ってくれる。

助けてもらうことに躊躇はいらない。
きっとあなたもこの先誰かを助けることになるのだから。

どんなに辛いことがあっても、
生きていれば素晴らしい日もやってくる。

この文章を通じてそのことをお伝えできたらこんな素敵なことはない、と思っている。

Aさん(35歳)(起業前)

 

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子どもを幼稚園に預けている間に、具体的なプランは浮かんでいないが
自分の趣味を生かしたお教室はできないか悩んでいる。

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合計料金 11,000円

結果

どんなことを準備していけば良いか、今足りていないことは何かがはっきりしてやるべきことが明確になった。

Bさん(45歳)(起業後)

 

( 相談時の状況 )

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お金の管理や確定申告の書類作成にも苦労している。

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・基本パックの内容からあなたに合ったプログラムでサポート

 ・あなただけのコンセプト
 ・きちんと稼ぐためのブランディング
 ・強みを活かした商品ラインナップ
 ・起業の継続に必要な事務と経理
 ・あなたのファンを増やす集客
・月2回の対面またはオンラインの面談
・メールでの質問や相談は無制限

合計料金 341,000円

結果

R-ポートフォリオに取り組むことで商品の種類と価格について再検討できた。集客の問題点をカウンセリングであぶり出しできた。お金の流れについて確認し確定申告までに書類の整理をすべき点が改善できた。対面サポートのおかげで6か月を不安なく進むことができ事業が安定するようになった。

Cさん(29歳)(起業前)

 

( 相談時の状況 )

ヨガインストラクターの資格を取得し、起業したいと思っている。
起業するにあたってのノウハウを知りたい。

(1)個別相談【11,000円】

・弊社指定のワークのご提出
・ご提出いただいた指定のワークをもとに50分の面談
・面談にて問題点や課題の抽出、今後のスケジュール作成

(2)セレクトコースのAコース:コンセプト(2か月)【77,000円】

・リトマス指定のR-ポートフォリオのご提出
・ご提出いただいたR-ポートフォリオをもとに毎月1回90分の面談
・フィードバックまたはアドバイスシート作成
・R-ポートフォリオに取り組みながらあなたらしいコンセプトを言語化
・メールでの質問や相談は無制限

合計料金 88,000円

結果

R-ポートフォリオに取り組むことで自分の強みや勉強が必要な部分が明確になった。計画的に進めて収益をあげていくイメージができた。

Dさん(51歳)(起業後)

 

( 相談時の状況 )

場所を借りて子ども向け教室を開催している。
生徒数が増えないためこのまま場所を借りて行うか、自宅で行うか悩んでいる。

(1)個別相談【11,000円】

・弊社指定のワークのご提出
・ご提出いただいた指定のワークをもとに50分の面談
・面談にて問題点や課題の抽出、今後のスケジュール作成

(2)セレクトコースのBコース:ブランディング(2か月)【77,000円】

・リトマス指定のR-ポートフォリオのご提出
・ご提出いただいたR-ポートフォリオをもとに毎月1回90分の面談
・フィードバックまたはアドバイスシート作成
・R-ポートフォリオに取り組みながらあなたらしいブランドイメージの作成
・メールでの質問や相談は無制限

合計料金 88,000円

結果

大手教室・類似教室との差別化や自分の強みを言語化することができ、自分の教室に合った生徒さんを集めることができるようになった。

Eさん(33歳)(起業前)

 

( 相談時の状況 )

フラワーアレンジメント教室を開催したいと思い、準備を始めている。
個別相談後、自分の価格設定ではイメージ通りの事業展開ができないと思い、セレクトパックを希望した。

(1)個別相談【11,000円】

・弊社指定のワークのご提出
・ご提出いただいた指定のワークをもとに50分の面談
・面談にて問題点や課題の抽出、今後のスケジュール作成

(2)セレクトコースのCコース:商品ラインナップ(4か月)【165,000円】

・リトマス指定のR-ポートフォリオのご提出
・ご提出いただいたR-ポートフォリオをもとに毎月1回90分の面談
・フィードバックまたはアドバイスシート作成
・R-ポートフォリオに取り組みながら商品企画書の作成
・メールでの質問や相談は無制限

合計料金 176,000円

結果

商品企画書により新しい商品メニューを追加できた。商品の価格を考える際のポイントが理解でき不安が解消でき、売り上げを伸ばすことができた。

Fさん(39歳)(起業後)

 

( 相談時の状況 )

アロマテラピー教室を開催している。
ホームページや販売サイトも作っているが思うように集客できない。

(1)個別相談【11,000円】

・弊社指定のワークのご提出
・ご提出いただいた指定のワークをもとに50分の面談
・面談にて問題点や課題の抽出、今後のスケジュール作成

(2)セレクトコースのDコース:集客・発信伴走サポート(3か月)【220,000円】

・R-ポートフォリオの集客レクチャー動画で学び課題を提出
・実施計画シートの作成
・Rポートフォリオを活用して計画の内容のサポート
・月に1回の対面またはZoomでの面談
・メールでの質問や相談は無制限

合計料金 231,000円

結果

無理なく、伴走サポートがあったおかげで計画通りに自分に合った発信を続けることができた。
その結果、自分の商品・サービスを喜んで買ってくれるお客さまに出会うことができた。

Gさん(60歳)(起業前)

 

( 相談時の状況 )

洋裁の資格を持っているので教室を開きたいと思っている。
教室開催が一からなので何から始めたら良いかわからない。

(1)個別相談【11,000円】

・弊社指定のワークのご提出
・ご提出いただいた指定のワークをもとに50分の面談
・面談にて問題点や課題の抽出、今後のスケジュール作成

(2)セレクトコースのEコース:講座実施サポート(3か月)【132,000円】

・実施計画シート作成
・講座開催までの準備のサポート
・メールでの質問や相談は無制限
・講座当日の運営アドバイスとフィードバック

合計料金 143,000円

結果

教室を開き、運営していくために必要なことをすべて知ることができ、自分の思う生徒さん、継続して通ってくれる生徒さんが来る教室を作ることができた。

Hさん(42歳)(起業後)

 

( 相談時の状況 )

リトマス講座で必要なことは学んだが、ひとりでは実践できるか自信がない。
誰かに背中を押してもらいたいと思っている。

(1)個別相談【5,500円(特別価格)】

・弊社指定のワークのご提出
・ご提出いただいた指定のワークをもとに50分の面談
・面談にて問題点や課題の抽出、今後のスケジュール作成

(2)セレクトコースのFコース:起業伴走コーチ(3か月)【1か月11,000円】

・長期スケジュール作成と3か月後の目標の設定
・月2回の対面またはオンラインの面談

合計料金 38,500円

結果

自分の計画通り、自分の力で進めることができ、思い描くゴールに確実に到達することができた。次の目標ができたので、さらに3か月継続してサポートをお願いした。